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Apr.9,2001 (Mon)
■弔
何時までも黙ったままでもしょうがないので、この場を借りて吐露してしまおう。多少どころでは無く、間違いなく暗い話であるが、このサイトを定期的に覗かれている方であれば、お付き合い願おう。まずは、事の発端から・・・
4月9日23時半を過ぎた頃、研究室で現在M1の後輩Wより電話が入る。
「夜分済みません・・・寝てましたか?」
「ああ、うん・・・」
などと寝ぼけ眼な状態で応対していたのだが・・・
「tnkさんが亡くなりました・・・」
「はぁ?」
「大山の方で・・・ツーリング中に車に突っ込まれて・・・」
「・・・・」
と、しばらく何かを話していたハズだ。
後輩からの電話を置いた後、私は文字通り放心・・・というか、記憶が曖昧な時間を過ごした。事実は聞き入ったものの、やはり何処か否定している。客観的に考えれば、よくある反応である。眠さは既に無くなり、とにかくイヤな時間を過ごした。ベッドの上でイヤな感情を押し込めようとするが、意識せざるを得ない。30分か40分をそうやって過ごし、その後『穴組』のメンバーに向けてメールを書いた。
内容は以下の通り。
/*********
こんばんわ、入鹿です。
先程、研究室の後輩より非常に重い知らせを受けました。
『穴組』に参加されていました、tnkさんが交通事故により
亡くなられたとの事です。
tnkさんは私と同じ農業機械の研究室に、博士課程として
在籍されていまして、ご存じの通り******におられた
事もありました。自前の財布で大学に戻られ、業績を上げつつ
あった矢先の事で、非常に悔やまれます〜中略〜
どうも愚痴っぽくなって来たかな。
お知らせだけならともかく、妙な長文付けてメールを流す
事をお許し下さい。なんか、こう、とにかく消化出来ない今
が非常にイヤなのです。同好の士であり、友人であり、研究そしてエンジニアとして
の先輩であったtnkさんのご冥福をお祈りします。********/
翌日も色々とぼ〜っと考えた。会社では、言語教育の担当者から「ぼ〜っとしてる」と注意された。昼休憩時にはHALから電話があった。ヤツも相当面食らってる様だった。同じく昼休みに、研究室の助手へ電話をかけtnkさんの告別式の会場を聞き出した。研究室では、陳さんが代表で通夜へ出るとの話。
現在は定時で帰れるので、帰りに中央郵便局に寄って弔辞を電報で送った。
・一緒に酒を飲みました
・愚痴の言い合いもしました
・遊びました
・仕事もしました
まだまだ出来る事は沢山あったハズだが、もう出来ないのである。語られる全ては過去形となる・・・。
丁度一年前、研究室にやってきたのは帝大を修士まで出て某自動車会社に勤めておられた人であった。母校に戻らず、現場に近い地方大学を選んだ所からも、妙な虚栄心とは無縁である事が伺えた。しかし・・・某氏の後輩であるという事が、砂上の楼閣大学で内部進学している修士達の懸案でもあった。しかし、実際に会って話をし、そして一緒に仕事をするに連れ杞憂であったと知った。体育会系であった点や、何より企業での実務経験が大きいとも考えられるが、やはり人間が出来ているという事だ。
私の向かいの席に座っていた事もあり、色々と無駄話をする事が多かった。知り合ってから一月も経ったところか、就職絡みの事でtnkさんが引用した言葉あった。
「いいかい?格言にもあるだろう・・・”それはそれ!これはこれ!”ってさ」
”ピキン”何かが走った。
「ぎゃっ・・逆境ナインですか?(^_^;)」
「え?知ってるの」
「ええ、もう、これ以上無いというくらい」
「う〜ん、やっぱり基本だね♪」
コレが決定打だった。その後引き出される言葉は、まさしく同じ匂いのする人だったのだ。最も有益に働いたのは、「アレは面白い」、「コレが良いよ」と小説その他の読み物の情報交換だ。本の貸し借りもずいぶんやった。
シュミレーションゲームをやっていただけに、やたらとそっち系の知識が強かった。特に海軍に強かった。二次大戦時の日本の艦艇は比較的有名だが、ヨーロッパの艦艇も当然のように出てきた。軍事ネタの見解としては、「ドイツと組んだのがそもそもの間違いであり、次にやるならイタリアと”だけ”組むべきだ」という話になった。これは、どういうことかと言うと、「真面目に戦争やるヤツと組んではダメ」という事だ。思わず大いに賛同してしてしまった。なんせ、面白ければ良いという、独特のラテンな感覚がシャープに出ている国だからだ。まぁ、戦場でパスタ茹でる連中だからなぁ・・・。
コンピュータを一緒に拾いに行った。大学の産業廃棄物置き場は、ジャンク好きにはたまらない場所である。運が良ければ、完動品であるディスプレイや、メモリやHDDの抜き取られていない本体が手に入る。確かにモノによりけりであるが、いつぞやか拾った台車などは取れかけたキャスターを溶接して再生した。買うモノは買う、捨てるモノは捨てる、拾えるモノは拾う・・・と、柔軟に対応した。
実験という付き合いが最も多かったのは、研究室という性格上当然である。ある日、tnkさんは私に言った。
「ねぇ、エヴァのサントラ借りて来てくれないかなぁ?」
「えっ?・・・どうしたんですか」
「えっとさぁ、今度AGTの機動実験やるんだけど、そんときのBGMにさぁ・・」
「いや、借りられますけど・・・AGTに暴走の危険でもあるんですか?」
「うん♪」
「・・・」
という具合。実験のBGMを指定されたのは初めての経験だった。
たった一年間であるが、その一年間は非常に濃密な時間だった。学ぶべき事が多く、色々と刺激を頂いた。僭越ながら言わせて頂ければ、私も色々と刺激となったであろう。その最たるモノはやはり『穴組』である。元をただせば、いあに言った一言から始まったこの集まりは、活動三回目にはtnkさんと一歩さんを加え、一気に二倍近い規模(笑)へと伸びた。前日から新見のカルストへ入り、キャンプをして酒を飲み、馬鹿話は尽きることが無かった。
2人で佐賀県の唐津まで学会に行った。tnkさんのアルトワークスで12時間程かかった。会場近くのキャンプ場で酒盛り・・・のハズが、私の体調の急変により変更。不気味な鼾が・・・と、隣に張ったハズのtnkさんのテントが、朝には4m程離れた位置に移動していた。
京都で学会があった。試作機のデモに色々出かけた。砂丘で実験をやった。研究室で飯作った。駆け込みで実験やった。教授の雑用降りてきた。酒飲んでくだまいた。夜毎不穏当な話題で盛り上がる。CADで頭を痛めた。某社に腹を立てながら、雪の中ラッキョウ掘った。思い出せばキリがない・・・。
思い出話はこの辺りまでにしておこう。
悔やんで悔やめる事では無い。もちろん私以前に長らく付き合われて居た方々もいらっしゃるであろう。何より家族の人達が居る。しかし、しかしだ、悔しいんだ。
人と人の出会いは貴重なものである。
政治屋や妙な教育絡みのオヤジ共の口からよく出ると、非常に陳腐な響きを持つ言葉だが、この時ほど痛感した事はない。
友人の何人かには聞かせた事があるエピソードがある。tnkさんと私の2人で石松に飲みに行き、酒が入って散々マニアックな話に華をさかせた後である。話は留まること無く、石松を出た後そのままtnkさん宅で飲み直す事になった。ビールを買い込み、2人でテレテレと歩いていた所だった。去年の3月以降、鳥取に長らく吹き溜まっていた連中が散り散りなってしまったので、久しぶりにできる偏ったノンセクション話に嬉しくなった俺は、口を次いである言葉が出てきた。
「いやぁ、類友って耐えない・・・というか、吹き溜まるもんですねぇ。まさか、またこういう人が身近に現れるとは思わなかったです」
「類友?吹き溜まる?失礼な、それは”天の意志”って言うんだよ」
そう言われた時、私は人との出会いを不躾に評した自分が恥ずかしかった。そしてサラリとtnkさんの口をついで出た”天の意志”という言葉が確かに相応しいと感じた。それ以降、私は出会うべくして出会った人に”類友”だとか”吹き溜まった”だのという言葉を使うのを辞めた。
しかし・・・・・私は一年でこの縁を断った天を憎まずにはいられない。